旅にグレイハウンド

西海岸をグレイハウンドで行く

2023.3~4月 北アメリカ西海岸ちょびっと縦断の旅・総括

 

 

Hi there👋

How are you doing??

 

旅の終わりから1週間が経ち、なんか間にいろいろありすぎてはるか昔に思える日々を懐かしくもはや思い出していた。

アメリカで顔を上げてにこにこ歩いていた私なんて嘘のように、いま大阪で、俯きかげんに人と目を合わせることを恐れて過ごしてる。

でもまだ遠くない、旅のなかで得た考えや感情は私のなかにまだ具だくさんのスープみたく冷めていない。

冷蔵庫に入れる前に、今回の旅で感じたこと、箇条書きでまとめてみるね。

 

 

・difference(違い)

やっぱりこれに尽きる。

許容は、共通点からは生まれない。違うということ、なんにも共有していないということ、私とあなたは別の人間なのだという認識、から生まれると思う。

旅だから、滞在したのが短い期間だったからそう思うのかもしれないけど、人と私が違うということに関して苦痛に思ったことはひとつもなかった。住めばいろいろ問題は出てくるんやろうけど、……でも、ほんとに? 3年前の留学時代だって、私しか悪くなかった。街と関わろうとしていなかったから、違いもその快さもほんとにはわかっていなかった。もっとオープンだったらいろいろもっと楽しめたはずだった。

いろんな国の人が住んで、それぞれ住みやすくするために努力してきて、もし国自体の歴史が浅かったって、移民たちの努力の歴史は確実に目に見えて積み重なっている。その歴史を礎に、オープンマインドで、暮らしたら「住みづらい」なんてことあるだろうか?

みんなが違うということがわかっている人ばかりの国だ。

自分と同じ人種の人としか関わらない人だって、英語以外のひとつの言語しか話さない人だって、極端に言えば人種差別者だって、みんな、その結果人当たりがよくたって悪くたって関係なく、少なくとも「違いがある」ということを理解している。

と思った。

 

 

ナチュラル(as you are)

naturalと英語で言うとなんか少しだけズレるのかなあと思うけど、"ナチュラル"、日本語のそれの意味のほうが近いかも。

人々が自然体だ。でもこれは、アメリカ人だけではないと思う。ホステルで会った別の国の人たちもそうだと思った。それこそ"ホステルに泊まる人"ってだけでその国の基準より大きくぶれる人たちなのかもしれないけど。

旅のなかで見た人、話した人たちは、剥き出しの自分でいることになんの抵抗もない、塗り固めることをしない人たちばかりだった。すっぴんでそのままお外に出られるような気軽さ。

日本でも近年、しきりに「あなたらしさ」「私らしく」など「らしさ」という言葉がキャッチコピーになることが多かったり、創作物のなかでそれを主張する人が多かったりする。みんなたぶん少なからず考える時期があるだろう。「私らしさってなに?」と。

私の見た目について、「"あや"っぽい」と言われることがたまにあって、私はへえ〜と思ってきた。なんとなく嬉しい、へえ〜だ。人にどんなふうに見えてるかは興味深いことだ。必要以上に自分っぽくあろうと思いはしないけど、でもなんとなく「自分っぽい」という概念への意識をしながら生きてきた。

でも、私は今回の旅で思った。そういう見た目や言動の「自分らしさ」は、形骸的なものだと。

自分らしい、なんて言葉で表す時点で、ラベリング、レッテル貼り、ブランディング、でしかないのだ。

私のなかの私はこうだからこうする、っていう遠回り、そこには不自然でぎこちない創造物しか立っていない。

自分の好きなようにすればいいのだ。好きな服を着て好きな靴を履いて好きなお化粧をすればそれがいちばんあなたが魅力的に輝くかたち。

よそへ行くとき、鏡を見て「へんじゃないかな?」と確認する。でも、「へん」なんてほんとはないはずなのだ。だって「こうあるべき」服装、見た目、お化粧、なんてないんだから。

私っぽい、ひいては20代女性っぽい、あるいは2020年代の若者っぽい、時代遅れじゃない流行遅れじゃない奇抜じゃない外れていない、なんて枠に納めるからいつまでも不自然なのだ。

as I amでいられれば。スタイルが悪くても頭が大きくてもお尻が大きくても、それは何よりも確かに、太陽が昇ることより明日がくることより変わらないことだから、受け入れるしかない。

ということがわかった。

 

 

・日本の国土の狭さ

アメリカはでかい。どこに行くにも何時間もかかる。道も広いし建物も大きいし人間の図体もでかい。

日本は小さい。どこへでもすぐ行けるし便利、道狭くて人間も小さい。

そして日本の狭さが単純に人々をイライラさせているんだろうなと、日本に帰ってきて思った。

道を譲り合うこともみんなできない。顔を上げたら誰かと視線がぶつかるので、スマホをずっと見ている。見ること、存在を容認することがそもそも失礼であるとする文化だ。狭いのに。

と言って、冷血な人ばかりなのかと言えばそうでもない。おばあさんが転べばみんなわーっと助けるし、誰かが抱えた荷物をばらっと落とせばみんなして拾う。私も横断歩道でチャリで大転けしたとき、把握できないほどの人数がぱっ!と寄ってきて助け起こしたりチャリを歩道に移動したり物を拾ったりとにかく助けてもらった。そう、みんな、人とコネクトする機会を待つともなく常に待っているのだ。

日本人には善良な人ばかり、というのではなく、他の国に比べて意地悪な人ばかりというわけではない、と思う。

じゃあどうしてこんなにみんなよそよそしいのか、と考えると私は住居の西洋化のせいなんじゃないかなと思うのだ。

日本の家は、開け放たれている。湿気の多い気候だから、常に風通しよく、開かれたつくりになったのだろう。壁は基本的につくられず、移動式で収納可能な戸が空間をとりあえず仕切っているだけだった。もちろん国土は狭いから、よその家から聴こえてくる話し声、喧嘩の様子や睦み合う様子、ぜんぶ"ツーツー"で生活音をみんなが共有していたのだろう。銭湯という文化だってそうだ。土地が狭いからそれぞれお風呂があるわけじゃなくて、地域ごとに大きなお風呂があった。ネイバーフッドの仲間たちとの交流の場所だ。大浴場と、夕涼みの場所。

狭いなりにすべてなあなあで、共有しあってできる生活があったのだと思う。カオスが許容されていたのではないかと思う。

なのに西洋から「壁」が輸入されて、生活は立て切られた。すだれとか生垣とかおざなりな仕切りじゃなくて、音も視線もすべて断ち切るプライベートな空間が家族それぞれに生まれて、それで許せなくなってしまったのだ。他人の生活音や気配を。

というのは、昔に健康ランドについての本を読んだときから考えてはいたことだった。その本では、「健康ランドにはカオスがある」と書かれてあった。「自分の顔のすぐそばに他人の足があっても許容していた」カオス。狭いなりにみんなでフリースペースを共有し合って楽しめていた時代の話。

日本は国土が狭い国で、ぜんぶスケールが小さな国なのだから、他人の存在を拒絶したって仕方がないはずなのだ。アメリカやヨーロッパは大きいから、それぞれにプライベートな空間があってもまだなお共有スペースを設ける余裕がある。でも、日本は違うからこそ混ざり合う健康ランド的施設、空間、生活スペースがあったんじゃないの?

とはいえ、「お辞儀」という動作が礼儀に組み込まれている文化だ、視線を向けることが失礼なのははるか昔からのことだろうし、多くを語るような国民性でもずっとないだろう。知らない人に警戒心でもって接するのはやっぱり日本人が「違い」に親しんでこなかったからだろうし。

とにかく思ったのが、日本は狭い国なのに、広い国の文化を無理くり輸入したから齟齬が起こってるんじゃないの、ということ。

 

 

・シャイ

日本人はシャイだ。感情を表に出すのに、なにかを表現するのに、二の足を踏む。恥ずかしがり屋さんなのだ。

それも私は、「らしさ」という考えと近いところにあると思う。たぶん、客観視しようとしすぎるのだ。世間体、というほど大それたものではないけど、社会のなかでの自分というものをつくればつくるほど、その社会の規模の大小はあれど、それに縛られて動けなくなる。

どんなふうに見られているか、他と比べて変じゃないか、は、他者との間で「違い」という概念のない狭い国でうまく波風立てずに生きていく上で大事な判断基準だったのだろう。

それなのにどうしようもなくある自我を無視できずに、押さえ込むことはできなくて照れる。自分というものを意識して、顔を赤らめる。

日本人はよく照れ笑いをする。「こんなはずじゃなかったんだけど」、みたいな。理想が高くて、その理想の自分になりたくて、それが「自分らしさ」の概念に繋がって、そこから外れると照れるのかな。

理想が高いというのは、他人に求めるものの基準が高いということと重なる。「私はルールを守っている」ことが、「みんなもルールを守るべき」にリンクするのは不思議なことだけれども、それがまかり通っているような気がする。だから芸能人の発言がすぐに炎上するし、レジで平気で舌打ちするし、みんないらいらしているのだろう。

 

 

 

とか、いろいろ言って、ぜんぶに「みんな」とか「日本人」とかの主語を使っているけど、けっきょくはぜんぶ個人の話。

私が日本にいたらそういうふうに考えて行動する、というだけの話だ。そしてそういう自分をあんまり好きじゃない、このバージョンの自分をあんまりよいと思わない、というだけ。

じゃあどうするの、ってなったらやっぱり、日本ででも好きな自分でいられるくらい、日本と距離を置かなければならないのかも。

というのは、アメリカ的なもののほうがよいと断言するのはコミュニケーションについてだけだからだ。砂浜も椰子の木もチポトレも街に溢れる人工的な甘い匂いも大好きやけど、日本にだってそれとおんなじ感じに好きなものはたくさんある。

日本で旅するのも好きなのは、地域とか風土とか方言とか食文化とかそういうものそのものが好きだからだ、いろいろな文化の違いを見るのは楽しい。人々が積み重ねてきたものは、その時点でもう興味深いしおもしろい。それをできる限りたくさん目撃して自分のなかに蓄えるのは人生目標でさえあると思う。

ただ、日本での他人とのコミュニケーションの取り方、その一点が嫌いなだけ。

家族がいるし友達がいる、日本という国を嫌いになれるわけがない。

若い自分には暮らしにくい、今、そう感じる、だけ。

 

だからたぶんまた20代のうちに、海外に住むだろうと思う。

住むのとべつに、ヨーロッパに行きたい。今回みたいにバスや電車でうろうろして、ホステルに泊まって旅をしたい。とくにイタリアやスペイン!!ぜったいに行きたい!!!物価も高くなさそうやし!!

またそのときにはブログを書くね!!とにかく今回は見てくれてありがとう、私が日本を好きな理由の人たち。

 

See you soon, my people!!

これを持って今回の旅は終わり✌︎✌︎