さあ、春だ。
冬も好きだが、さて春だ。どこかに行かなければならない。
私には大事な友達がいる。距離の遠さや会えない期間の長さは変わらない。大好きで、話の通じる友達は時空を越える。とはいえフィジカルをこそ信じている私は、そのうち、東京にいる大学時代の2人に会いに行くつもりをしていたので、そうした。
会いたいと伝えれば時間をつくってくれる友達がいることは幸せだと思う。
エイプリルフール、嘘みたいな快晴のもと(この喩えを使っている人の推定数を考えると少しはにかむ)、新大阪へ。バス大好きやけど、今回は新幹線こだまに乗っていく。移動というのは時間がかかる方がよいときがある。
テンション上がってしまって、いきなりの散財。
だって、牛タンと明太子一腹まるまるのお弁当ってなんかめっちゃアホっぽくない? 欲望を詰め込みましたという感じで好ましい。しかも開けてみるとパッケージとまったく同じ中身してて、笑った。ベストチョイスすぎ。
12時ごろに新大阪を出た瞬間にお弁当を食べ始め、食べ終わってごみを捨てに行き、ゆっくり食後のコーヒーを飲む。
リクライニングを倒すとき、後ろがおじさんだったので緊張した。おじさんとは極力関わりたくない。「席、倒してもいいですか」と仏頂面で訊いた、おじさんはいい人そうだった。私はうまく許可に対するお礼を言えず、反省した。乗ってる間中反省していたから、もう早くおじさん降りてくれと思った。
なんて差別主義者的行いだろうか。おじさんに嫌な思いをさせられたことはたくさんあるが、おじさんにだっていい人はたくさんいる。べつのおじさんの加害は、このおじさんのせいじゃないのに、被害に遭った私という共通点によって、おじさんたちを同一化してしまうなんて勝手がすぎる……。カテゴライズってよくないなあ。自分の反省点によって心が暗くなるので早く降りてほしかったけど、おじさんは小田原くらいまで乗ってた。
新幹線では車内販売がなくなった。「ビールにお茶〜」は、もう聞けない。というよりまあ、聞いている人が少なくなってしまったからなくなったのだろうけど。グリーン車ではインターネットから注文して持ってきてもらう車内販売サービスがあるみたいやけど、今回はこだまやからなかった。
行楽の楽しみは減る。みんなにとって特別なおでかけってなんなんやろうなと思う。移動=苦痛で、瞬間移動するためにスマホに没頭するんだろう。私は旅好きという性質があるから移動中の車窓が好きなんだろうか。東京と大阪が時間的に近くなったら、またもっとおでかけの特別性は失われるのかな。
私はぜんぜん富士山まだ嬉しい。
「新富士」ごしの、新・富士山。
工場越しの富士山。
富士市あたりも、泊まらないといけないなとずっと考えている。この高原ぽさと、富士山という圧倒的アイデンティティのうえに形成された町なんて興味深すぎる。
16時くらいに東京に着いた。
ほんとうに人が多い。東京の電車の扉には三回くらい挟まれたことがあるので東京の電車は嫌い。旅をする人にとって交通機関というのはその土地を知る基準になると思う。東京へは、行くたびに「あの街もこの街も歩きたい」と勇むのだが、結局ぽしゃる。友達と会うためのどこそこへしか行かない。移動に対する意欲が削がれるのだ。
友達は、お母さんの見送りで同じく東京駅にくるらしいが、私はなんとか街歩きを成功させようとして先に目的地へ向かった。
今回は「荻窪か赤羽で飲もう」と友達は言っていて、荻窪のほうが助かるとまで言ったのに、私は「いいや、赤羽がいい」と言い張った。なぜなら、オギクボとかいうのはあんまりテレビとかで見ないし聞かないけど、赤羽はラジオでもなんか飲みに行ったとか言ってる人がいたりして行きたかったからだ。
ラジオで出てくるんだからおもしろい街だろう、と思って前乗りをして、歩いた。
あのさあ、発音しにくい店名。読めへんかったし最初。
変な店名見たときにいつもなる話題として「ここ行くときなんて言うんかな」。「ゔぁ」をVの発音で言い続ける人はいるのか。「ば」とBになってしまうんじゃないだろうか。
この日高屋というのは関西にはないから憧れるのだけれども、東京にきて王将的なポジションのお店にどうしても行く機会がないから未踏。
そして「1番街シルクロード」という、東京にはこんなに物が溢れているのに屋根が破けたままってあるん? と思うアーケード。
たぶん、「赤羽に飲みに行く」ってこういうところを指すんやろうなあと思った。月曜の17時にしては人が多い。しかしやっぱり大阪でいう天王寺とか京橋とかって、昼から飲んでるのは終わりみたいなおっさんが多いけど、東京って違う。若者が多いというよりは、50代以下が多い? 終わりみたいなおっさん用の飲み屋街がべつにあるのかな?
それでいうと、村上龍の小説の日本には多くスラムが出てくる、私はいつも思う。実際の日本にスラムがないのって逆におかしくない? と。大阪の西成だって、路上で物を広げて闇商売してる人のストリートなんて一本きりしかないと聞いた。女ひとりで何回も歩きに行けている。東京には? 今調べたら、吉原の近く、台東区に山谷地区というドヤ街があるらしい。そこも西成みたいに、外国人バックパッカーの安宿地帯になってるみたいで、スラムの役割はなさそうだ。
たくさんの矛盾が生まれる社会のなかで、ぎゅっと押し出された軋轢の結果としてのスラムは、ある方が自然に思われるのに、日本の街はどこもかしこも綺麗で、危険がない。
ホームレスには襲われへんかったけど、異常気象には襲われた。歩いていると、とつぜんの雹、雷まで鳴っている。怖くて知らんアパートの軒下でやり過ごし、小康状態のすきにお店に入った。
かしら屋 東京都帰宅赤羽1丁目17−6
おいしかった!フェイバリット!!
ファーストドリンク(まだ一人なのに赤星大瓶頼んですみません)の到着とともに勝手に「カシラ」の串焼が出てくる。これを
ギブアップするまで延々に出してくれるそうだ。え? 勝手に出してきはるってことは無料? と脳にバグが起きたけどそんなわけなかった。味噌だれを刷毛でつけて、食べるとめっちゃおいしかった。友達にLINEで報告したら「日本版シュラスコってこと?」と言っていたけど、シュラスコを食べたことがないので無視してしまった。
コップのビールをがっといって、周りを見て驚いたのが、カウンターで本を読んでいるおばちゃんがいること。いや、まあしっとりしたバーならまだわかる。でも串焼屋さんやで? どういう了見や? リラックスできるか? 中身入ってきてるか? どうやら常連のようやけど、へんすぎるなあ。お母さんにLINEで報告したら「さすがダイバーシティの東京やね」と返った。そういうことか……。これも多様性か。
そして説明書きの①お客様の食べ具合いを見ながらの食べ具合いがどれほどの期間を指すのか様子を見たり(食べ終えたらすぐきた)卓上をちょっと整理したりしてると友達が来た。強制的にビールを飲んでもらい、待ち構えていた店員さんがカシラを運んできてくれる。書くだに幸せな(一方的すぎるけど)シチュエーションだなあ。
彼女とはいくら話しても話し足りない。大学のときの友達なので、耕す部分がいっしょというか、持っている辞書が同じというか、とにかくするする話が通じる。加えて興味の幅が広く物知りなので、話していて勉強にもなる。
お酒をがぶがぶ飲み、つまみをがぶがぶ食べながら話す。ほんとうにいろんなことを話した。友達は私に本を紹介してくれた。伊藤計劃の『虐殺器官』。私は村上龍の『愛と幻想のファシズム』を紹介した。言うまでもなく愛読書なのだが、話の流れ的にぴったりだったのだ。
そして『虐殺器官』を読んでいて思う。彼女は監視社会の本を、私は狩猟社会の本を場に出したのだと。テロを防ぐためにすべてをトラッキングする監視社会の本と、ゲリラ的に社会を壊してからカリスマが君臨する本。言葉を重ねてその実体を丁寧に紡ぐ理性的な本と、強く簡潔に正解を言い当てる本能的な本。正反対のようだが、共通項もある。多分にある。
そしてもう一人の友達が仕事終わりに駆けつけてくれる頃には、二人ともちゃあんとできあがっていた。ぜぇんぜん話せなかった。またすぐに東京に行く理由ができた。
その日は友達の家にお世話になった。
荻窪のアパートは居心地がよかったので、ちゃんと9時間暗い寝た。
楽しい1日だった。